Menu
 ■大垣城跡 (市指定文化財)
 大垣城は、別名を麋城・巨鹿城といい、天文4年(1535)に美濃国守護土岐氏の被官宮川吉左衛門尉安定が創筑したと伝えられている。豊臣秀吉は大垣城を重視し、一族・家臣を封じた。天正13年(1585)の大地震で大被害を受けたが、慶長元年(1596)伊藤祐盛が初めて天守閣を造営した。  関ケ原の戦いでは、一時石田三成方の本拠となったが落城した。慶長18年(1613)石川忠総が八幡郭の総堀(水門川)と高橋筋・竹島町南総堀を開削したことから、軍事上枢要の城となった。寛永12年(1635)から戸田氏10万石も居城となった。明治3年(1870)七口門・東西両総門などは廃毀され、天守閣、丑寅櫓のみ残されたものの、所昭和20年(1945)7月の戦災で焼失した。同34年(1959)4月、4層4階の天守閣を再建し、郷土博物館を開設した。  城跡の東入口には、旧柳口門が移築された。
 ■美濃国分寺跡、附瓦窯跡 (国指定文化財)
 美濃国分寺(僧寺)跡は濃尾平野の最西端に位置し、伊吹山系の東に最も張り出した山地の東端に近い南側の平坦部にある。 また、遺跡東北側の丘陵には、瓦窯跡が確認されています。  美濃の場合は、垂井町府中の国府に近く、しかも青野原一角のの恵まれた地が選ばれて国分寺が置かれたものです。  なお、国分尼寺は、隣接の垂井町平尾地内に推定されている。  昭和43年から55年に発掘調査と環境整備が行われ、寺域(七重塔、金堂、講堂、回廊など)を史跡公園として整備、 併せて昭和57年に歴史民族資料館を建設し、多数の出土品を検事しています。  瓦窯跡は、国分寺創設時における瓦窯であり、単弁十六葉蓮華文軒丸瓦、均整唐草文軒平瓦などがこの窯でつくられた。
 ■船町港跡 (県指定文化財)
 船町港は、水門川の河港です。水門川の水運業は慶長年間(1596〜1615)に、港町船町の形成、船問屋の設置とともにはじまり、 元和年間(1615〜1624)には運輸業が発展した。  正徳年間(1711〜1716)までは豊坂丸・亀坂丸の2隻が藩主の江戸往復の御用船をつとめ、その他の川船も数多く水運業が栄え、船町港はおおいに繁栄した。 その後、川底の変化に伴い大船の航行は不可能になった。 大正2年(1913)養老鉄道の開通により旅客の乗船は減少したものの、貨物の運輸はなお盛んであった。  しかし第二次世界大戦後、舟運は衰退し、現在は芭蕉蛤塚・住吉燈台が面影をとどめている。
 ■奥の細道むすびの地 (市指定文化財)
 松雄芭蕉は、はじめ貞門俳諧を学んだが、後に江戸へ出て談林風の句を詠んだ。 やがて、俳諧師として身を立てると、独自の閑寂高雅な蕉風を確立した。  元禄2年(1689)3月27日、江戸深川を出発して、門人曽良とともに、奥州各地を行脚し、北陸を通って美濃に入り、 8月に大垣へ来遊して奥の細道の旅を終わり、9月6日に谷木困・近藤如行らに送られ、船町港から水門川を伊勢へと下った。